グラムロックシーンの映画『ベルベット・ゴールドマイン』

70年代のグラムロックシーンを描いた映画『ベルベット・ゴールドマイン』がとても面白かった。amazonプライムビデオで鑑賞。70年、ぼくはフリージャズに没頭していた。パンクロックを聞くのは70年代の後半になってからだから、グラムロックの頃のロックシーンは全く知らない。ジャズを聞いていると、ロックは商業主義に堕落していると思い込み全く聞かなかった。ロックもジャズも聞いていればよかったのに、と今なら思うけど・・・。

美しい男たちが美しく化粧して、美しい衣装に身をつつんで、ときに愛し合う、というビジュアル的にも引き込まれる映画だが、それだけじゃない。グラムロックに身を焦がす悲しみに共感!

《『ベルベット・ゴールドマイン』鑑賞で役立つサイト》

  • 浮気なシネ漫歩 第74回:「ベルベット・ゴールドマイン」
    この映画は構成が複雑なので、グラムシーンを全く知らないぼくにはストーリーを追うのが難しかった。見た後で『浮気なシネ漫歩』サイトのこのページを読んで映画の内容がより理解できた。これを読んだ上てもう一度みたらもっと映画がもっとおもしろいと思う。

ダダリズムを聞いて釜ヶ崎へ

ホテルが並ぶ環状線新今宮駅南側、通称釜ヶ崎
ホテルが並ぶ環状線新今宮駅南側、通称釜ヶ崎

2015/03/21、ンチチビルのダダリズムを聞いた。小さな空間に大勢のオーディエンス。一番前の椅子に座った。目の前に2台のドラムセット。音が渦を巻いて体に沁みこんできた。

ダダリズムの音が心の何かのスイッチを入れたらしい。歩きたかった。ンチチビルを出るとすぐJRの高架にぶつかり、そのガード下をくぐり抜けると釜ヶ崎だった。路上で男たちが寝てて、路上で黒猫たちが遊んでいる。一泊1400円の安ホテルの看板の明かりで、街路樹の白いモクレンの花が闇夜に浮かび上がる。孤独な街の白いモクレンは場違いな花嫁衣装のようで淋しすぎた。

街に漂う小便の匂いを嗅いで、強く昔を思った。40年以上も昔の20代前半、オレはこの街にいた。日雇いをやっていたので早朝に寄せ場に通った。路上に並ぶ飯屋で朝食を食い、人夫を集めるマイクロバスがぎっしりと並んだ、喧騒の中でその日の働き口を得た。夕方、街に帰り、飲み屋で、コップに注がれる焼酎を飲んだ。軒を連ねる飲み屋から笑い声や罵声と共に「ここは天国釜ヶ崎」の演歌が流れていた。今、あの喧騒はない。変わらないのは小便の匂いだ。

三角公園を目指したが、見つからない。迷ってしまったらしい。強い酒が飲みたかった。でも、のれんをくぐるのを気後れしている。今じゃオレはこの街の余所者だ。三角公園を探して歩き続けた。やっと見つけた夜の公園に佇んで、この街に引っ越してきた最初の日、公園の地べたに並べられた日用品の品々の中から電気炊飯器を買ったあの日を思い出した。会社勤めに嫌気がさして吹き溜まりに流れ込むようにしてこの街にやってきた。あの日、街の喧騒に救われていたが、今の釜ヶ崎は淋しいだけの街だった。

(Facebook より転載)

ンチチビルのダダリズム(2015/3/21)

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ダダリズムの演奏を聞きにンチチビルへ向かった。地下鉄大国町駅で下車。南海本線の高架を目指して歩いた。高架の向こうに見えるのは通天閣。

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南海本線の高架に沿って少し歩いてンチチビルを見つけた。

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これがンチチビル。ダダリズムの演奏は階段を上がった3階で行われている。

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《ダダリズムサイト》

藤圭子『女のブルース』

http://youtu.be/sSYvZAgULus

今日、宇多田ヒカルさんはサイト(Hikki’s WEBSITE)に藤圭子の葬儀について書いている。葬儀はなく火葬のみという点について、母の遺言書に基づき、その意向にそうべく精一杯の弔いをしたとある。また藤圭子は身内や知人の葬儀に出席せず、自分のやり方でお祈りを捧げるポリシーの持ち主だとも書いてあった。

とても共感できる内容で、また一段と藤圭子が好きになった。ぼくも葬儀や告別式は好きでない。できることなら出席したくないけれど、全く出席しないのは難しい。でも、自分のときは病院あるいは今度の藤圭子のように警察から火葬場に直行して葬儀なしで焼かれたい。遺骨は散骨などで処分されて墓に入れられたくないと思っている。

今日は宇多田ヒカルさんのサイトを読んでから、藤圭子の初期の唄を何度も聞いた。「新宿の女」(69年9月)、「女のブルース」(70年2月)、「圭子の夢は夜ひらく」(70年4月)、「命預けます」(70年7月)のデビュー曲から4作目までを何度も聞いた。「女のブルース」の歌詞の良さに気づいた。「命預けます」の唄いっぷりに惚れた。69年から70年はぼくにとって特別な時で、彼女の唄が心に沁みていた。今彼女の唄を聞いていていると、いやでも当時のことが浮かんでくる。

当時ぼくは、安保闘争などの左翼運動が終焉して完全に行き場を失っていた。セクトに属さなないただの活動好きに過ぎなかったけど、運動の終焉はこたえた。カミさんとひっそりと文化住宅に住み、時々早朝に起き出して日雇仕事に出る以外は誰にも会わない(会えない)日々が続いていた。仕事を得るのは釜ヶ崎の寄せ場から港区の職安に変えていた。地下鉄に乗って大阪港駅で降りて職安に行った。仕事は大阪港がメインだけど、神戸や堺の方にも行った。遠くだとマイクロバスで運ばれる。大阪港だとすぐ近くの岸壁から小さな船に乗せられて港内に停泊している貨物船まで運ばれる。昼の弁当を渡されて屋根もない小型船に乗り込むが、冬だとまだ暗く粉雪が舞っていることもあった。そんなとき弁当の包みを抱きながら藤圭子の唄を口ずさんでいた。

71年か72年かはっきりしないけどジャズ喫茶「マントヒヒ」に通いだしてから人と話しをするようになった。それまではカミさんと二人だけの、ほとんど引きこもりの日々だった。藤圭子の唄を歌詞に注意して聞いていると、当時のぼく自身の心の内がすけて見えるようだ。

SHINGO西成の豪雨の釜ヶ崎三角公園ライブ

1359865894SHINGO西成の釜ヶ崎三角公園ライブに行ってきた。三角公園を目の前にしてどしゃ降りの雨。SHINGO西成が「ここは天国釜ヶ崎」を熱唱している。好きな唄や、いいタイミングだった。光る稲妻と雷鳴、そして豪雨。ステージ前のみんなずぶ濡れ。ぼくもたちまち下着から靴下まで、あっという間にずぶずぶや。ムチャいいライブやった。

でも、ライブの後の盆踊りが中止になって残念。今夜は釜ヶ崎で遊んでいくつもりやったけど、風邪をひきそうでまっすぐに地下鉄動物園前をめざして急いだ。21才になってすぐにぼくは北海道から大阪にやってきた。紹介されていたデザイン事務所では仕事ができず、下町の印刷工場へ行かされた。でも、大阪弁がよく分からず人間関係がうまく行かなくって、釜ヶ崎に逃げ込んだ。60年代のことだ。

まず、飛田遊郭の近くにアパートを借り、この三角公園の市で電気釜とか日曜雑貨を揃えたんだ。そして日雇い労務者を続けた。万博前で景気がよくて、そこは天国だった。誰に気兼ねをすることもなく、気楽な毎日だった。釜ヶ崎に居場所を見つけられなかったら、ぼくはどうなっていたか分からない。だから、釜ヶ崎は故郷みたいなものだ。

galaxy galleryのKC個展

13662318112012.02.10 galaxy gallery 行ったんだけど、pratas では『Into The Light』Mixed by YA△MA – RENOVATION NU Release Party!!!! 。ya△maちゃん回してるし、galleryじゃー、KC (live paint) × uvAntam a.k.a UBAR TMAR (サウンドインスタレーション) と、あそこはなんちゅーかぼく的にはすごい空間になってた。

KC個展は5日のオープニングと10日の2回行って作品をじっくり見られた。ライブペインティングを見られたのもほんと良かった。11日のライブは行けなくて残念だった。

去年の KC個展 ”Bon Voyage” 2days closing pARTy!!! で初めて見て、今回が2度目。またの機会があれば絶対に見たい。

『ゼロ年代の音楽-壊れた十年』を読んだがよく分からない

ゼロ年代の音楽---壊れた十年野田努、三田格、松村正人、磯部涼、二木信 著(河出書房新社、2010年1月発行)

二つのトークショー、「音楽・政治・ドラッグ」(2009.10.30)と「サブカル誌ナイト」(2009.11.7)を中心として、2000年代の音楽シーンを振り返る内容。ぼくは、80年代後半から00年代前半まで音楽を聞いてなかったので、本書から得るところを期待したが、よく分からなかった。

90年代、00年代のミュージシャンやグループの名前が全くと言っていいぐらいに分からない。名前が分からないだけならいいが、シーンが分からない。例えば、「セカイ系の『最終兵器彼女』は、」なんて、全く分からない。だから、最初はほとんど飛ばし読みしてたんだ。でも、この人たちの会話にやたら「セカイ系」って言葉が出てくる。

で、このまんま、この本から離れてしまっては、何にも分からないままだよなって、思って「セカイ系」をネットで読んでたらだいぶんに分かってきた。『新世紀エヴァンゲリオン』はビデオで見ているし、下地はあったわけだ。驚いたのは、村上春樹のの『1Q84』なんかもセカイ系のくくりで説明されていることだった。

昨年、ぼくは村上春樹の余りの評判に押されるように『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』を読んでいる。これらの長編を読み切ったのはストーリーのおもしろさからだったが、結局は後に余韻を残すことなく消費しただけだった。だから、もう村上作品はもう読まなくていいや、って思った。でも、なぜこれほどに評判がいいのかが分からなかった。その疑問がセカイ系をキーワードにすることで何となく分かったんだ。

ということで、本書をもう一度しっかりと読む価値があると思った。

お多福百体展@アトリエ「観」Milの山本公成(笛)

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30数年振りに山本公成を聞くために東住吉区のアトリエ「観」Milへ行った。お多福百体展のオープニングパーティでの演奏だった。ギャラリーには、バリ島の木彫り師に彫ってもらったというお多福さんが百体以上も並ぶ。それが「お多福百体展」だ。森きくお作品展も併催されている。こちらはバリ島の聖山アグン山を描いた絵だ。

スピリチャルで素朴な作品に囲まれて、山本公成の演奏もとてもナチュラルだった。演奏される笛は手製のものから世界の民族楽器まで、ほんとうにたくさんの笛を演奏した。写真は笛の説明シーン。ギター、西条渉。

70年代の前半、ジャズ&ロック喫茶マントヒヒでぼくは山本公成のライブを何度も聞いた。マントヒヒ以外で、いまだに強く印象に残っているのは、日本維新派の芝居の音楽を担当したことだ。淀川の河原に大規模で複雑な舞台が作られ、ミュージシャンたちは、舞台横の高い櫓から演奏した。

当時の山本はフリージャズのジャンルに分類されていたが、演奏はフリーな即興音楽という感じで必ずしもジャズにこだわっていなかったと思う。ライブ会場には常にテナーサックスとフルートを持ち込んでいた。そのフルートから様々な笛に行き着いたに違いない。

ぼくは、フリーな即興演奏家としての山本公成だけを知っていたわけだが、現在の彼は民族楽器を駆使するスピリチャルな演奏家だった。それを前にして、とまどいは無かった。無かったが30数年の時の長さを強く意識せざるを得なかった。時の重みを感じて息苦しいほどだった。笛とギターのディオだったが、これに打楽器でも入っていれば、ぼくは息苦しさを振り払うために踊り出していたかもしれない。いや、本当に踊りたかった。

70年代の後半に入るとジャズ&ロック喫茶マントヒヒがなくなったこともあり、山本と疎遠になった。ぼくを30数年振りに山本のライブ会場に連れ込んだのは、マントヒヒのマスターだ。彼はこの8月に他界したばかりだ。森きくお氏もかつて知っていたが、30年ぐらい森さんの名前に接することがなかった。全く偶然に森さんの作品に遭遇したわけだが、それが名高い聖地を描いた連作ということで感慨深くなる。

話はまだ続く。PAに試用していたスピーカー(右の写真)は、今井一満氏が制作というよりも発明したスピーカーだ。今井氏もまた、30数年前に知っていた。しかし、このスピーカーのナチュラルで気持ちの良いサウンドはもうメチャ良かった。

川村カオリ自伝『へルタースケルター』

Helter Skelter
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川村 カオリ
宝島社
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川村カオリの自伝『へルタースケルター』読んだ。全く知らないアーティストだったが、38才のDJが貸してくれたので読んだ。読み出したらやめられなくて、ほぼ一気に読んでしまった。川村カオリは1988年デビュー、2009年7月乳ガンで亡くなる。享年38才。

本書には両親の出会いから、乳ガンの闘病までが書かれている。彼女に、本書に、ロックを感じた。YouTubeを検索し、映像を見て、音を聞きながら本書を読んだ。特にインディーズ・バンドのSORROWが気に入った。

《YouTubeのSORROW》
HUSKY / SORROW 川村カオリ
TOKYO RODEO / SORROW 川村カオリ
Baby Snake Alaska / SORROW 川村カオリ
Woe Rain / SORROW 川村カオリ
Buddy / SORROW 川村カオリ
Estados.Unidos.America / SORROW 川村カオリ
SORROW / TEENAGE HERO 2000.06
SORROW 川村カオリ PV2曲(Estados.Unidos.America、TOKYO RODEO
SORROW – (PV) Lagrimas de maria 川村カオリ

ジョン・コルトレーン / Live at Birdland

Live at Birdlandひさしぶりにコルトレーンの『Live in Birdland』を聞いた。たぶん、30年振りぐらいか。聞いていると、このアルバムを初めて聞いたときのことが思い出されてたまらなくなった。同じ歳のいとこの部屋で聞いたのが始めてだった。1965年頃、20歳直前だったと思う。このアルバムのレコーディングが1963年だから、ほとんど、リアルタイムにコルトレーンの音を聞いたことになる。30歳ぐらいの頃にアルバムを自分で買っているが、その頃から聞いてなかった作品だ。

エキゾチックな〈Afro-Blue〉、〈I Want To Talk About You〉後半の印象的なカデンツァ、曲が録音された63年に起きたアラバマ州の教会爆破で犠牲になった少女たちに捧げる鎮魂の〈Alabama〉。これらジャズというカテゴリーにおさまりきれないサウンドを10代後半のぼくがどんな気持ちで聞いていたんだろう。このアルバムを聞いて大きな衝撃を受けたという事実以外は思い出せない。

コルトレーンはこのアルバムを聞く少し前に『Live At The Village Vanguard』を聞いたのが初めてだった。もちろんいとこが買ってきたレコードだった。そのサウンドに驚いた。吹いている楽器は何だろ?と尋ねたことを覚えている。ソプラノサックスだ。大学に進学して、軽音楽部に入りアルトサックスでジャズをプレイしていた、いとこだった。ぼくは高校を卒業して、小さな会社に就職して事務員をしていた。毎日、背広にネクタイで通勤していた。

そのいとこからは高校生の時にモダンジャズを教えられて、すぐにジャズにのめり込んでいった。しかし、コルトレーンの『Live At The Village Vanguard』や『Live in Birdland』はそれまで聞いていたモダンジャズとは何かが違った。10代のぼくはモダンジャズとは違うその何かに向かって進み、オーネット・コールマンやアルバート・アイラーのアルバムに出会うことになる。

そう、フリージャズ・シーンをリアルに体験した。フリージャズ後のパンク・ロックの体験。そしてミニマムなサウンドに染まる現代のクラブ・シーンまで、ぼくは歩き続けている。いとこがモダンジャズを聞いていなかったら・・・、いとこがコルトレーンのアルバムを買っていなくても、ぼくは今のぼくと同じだろうか。たぶん、違っていたかもしれない、と思う。コルトレーンの『Live in Birdland』は重い。『Live in Birdland』がぼくの何かのスイッチを入れたのかもしれない。