パトリシア・ハイスミス著『キャロル』

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ムチャ天気いい午後、パトリシア・ハイスミスの小説『キャロル』を読み出したら、予想以上におもろくてワインを飲みながらの読書で、非常に自堕落な気分を楽しんだ。と言ってもそんな贅沢な時間を長時間とれる訳でもなく、小説はほんのさわりだけ。30代の上流家庭の美しい人妻と、19才の若い娘の恋愛小説。二人の出会いから惹かれ合うプロセスにドキドキしながら読んでいる。

本書が原作のトッド・ヘインズ監督の映画『キャロル』は一部の若い女性たちの熱い支持を得ているそうだ。その情報のせいで、読み始めたのだがなるほどと思う。この監督の映画『ベルベット・ゴールドマイン』は数ヶ月前に監督のことは何も知らずに、ただデヴィット・ボウイがモデルというだけで見たんだ。男同士の濃厚なベットシーンがあったりと非常に魅力的な映画で、今後何度も見ることになりそう。

3日前に『キャロル』を撮った監督ということで『エデンより彼方に』を見た。50年代のアメリカ地方都市の上流家庭を舞台にした悲恋もので、かなり辛い映画だった。白人の黒人に対する差別がエキセントリックにならずに描かれていているところに、かえって差別のすごさが表現されている。内容が濃厚すぎて2度3度と見る気持ちになれない映画だ。

2日前には勢いで、ボブ・ディランをモデルにした『アイム・ノット・ゼア』も見た。ディラン役は何人もの俳優が演じるという非常に複雑な構成で1度見ただけではよく分からない映画だった。女優ケイト・ブランシェットのボブ・ディランがとても魅力的。こちらは何度か見るつもり。

というわけでぼくの中で、トッド・ヘインズ監督は一気に注目監督に急上昇中というわけ。映画は上映中らしいが、頻尿 (;_;) のせいでもう20年間近く映画館に行っていないのでDVD待ちだよ。ちなみに映画館で最後に見たのは宮崎駿監督の『もののけ姫』なんだ。

四方田犬彦著『ハイスクール1968』

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四方田犬彦著『歳月の鉛』(工作舎、2009年刊)がamazonから届いた。写真右隣の『ハイスクール1968』(新潮社、2004年刊)の続編。ハイスクールはおもろくて、おもろくて今2回目を熟読中! それで『歳月の鉛』も買ったんだ。どちらもamazonの中古本でけっこう安い。鉛の方はほんと久しぶりに買う工作舎の本。相変わらず気取った装丁、そのうえ本文のレイアウトもずいぶんとデザインしている。そのデザインが濃すぎてちょっと読みにくそう (^^;

しかし、四方田犬彦氏って今まで知らなかったけど、ムチャおもろい! ハイスクールは著者の高校時代を回想するエッセイ。1968年、氏の高校1年生の16才から70年までの3年間の回想。新宿のデモ、東大安田講堂、三島由紀夫などの時間を共有していたぼくは6才上なだけ。ここに登場する小説、映画、音楽などのほとんどをぼくもまたリアルタイムで読んで、見て、聞いている。

ジャズに関して言うなら、当時のフリージャズシーンのなかでアルバート・アイラーを聞くジャズファンはまれだっと書いている。これはぼくも大阪で実体験していたことだ。もちろんぼくはアイラーを聞いていた。四方田氏はアイラーに関して意気投合したのは、中上健次だけだっと書いてある。これでぼくは四方田犬彦は信用できると思った。

音楽を教養として聞くレベルではアイラーを聞けないと思う。特に若い頃は、音楽も映画も小説も人生を賭けるぐらいの意気込みで接しないと付き合えないよな。その点で四方田氏はすごい。ぼくは付き合い方が中途半端だっと氏の本を読みながら、つくづくと思わずにいられない (–;) いや、まだ遅くないと楽観的に言ってみる( ´ ω ` )

《追記》

ハイスクールを読んでいて上記の文章の間違いを見つけた。中上健次と意気投合したのは、ファラオ・サンダースと組んだ後期のコルトレーンのことだった。これだって、ま、アイラーと同じことが言えると思う。アイラーに関してはもっとすごいことが書いてあった。アイラーに出会った衝撃はセリーヌの『夜の果の旅』を読んだのに匹敵すると。
ぼくは『夜の果の旅』を70年代初期に読んだが挫折。阿部薫が読んでいると本人から聞いたからだった。その後、数年ごとに思い出したように読むがいつも挫折。ついに40年以上経った去年、やっと読了した。アイラー同様に人生を賭けるぐらいの意気込みでなければ読めない小説だった。中上健次の小説だって代表作を何度も挫折していまだに読了していない (;_;)

ジェイムズ・P・ホーガン『未来の二つの顔』

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ジェイムズ・P・ホーガンのハードSF『未来の二つの顔』(1979年発表)を読んだ。AI と人間は共存できるのかがテーマ。未来に対してユートピア的なところで、ぼくの好みのSFじゃなかった。ぼくはディストピア的に描かれる近未来SFの方が小説としておもしろい。士郎正宗、ウィリアム・ギブスン、伊藤計劃なんかが大好き。

雑誌『WIRED vol.20』の特集「人工知能はどんな未来を夢見るか」をぺらぺらめくってたら、ぼくは “AI” をほとんど知らないことに気づき、その雑誌で推薦していたホーガンの『未来の二つの顔』を読んだわけ。だから、SF小説を楽しむというよりも、AI 入門の教科書みたいな感覚で読んだ。

ところで、vol.20のWIREDだけど、いつもと違ってけっこう厚くて、料金も1200円。びっしりと文字が詰まってるんだけど、その活字が小さくて高齢者の目には全く優しくない。次号発売前の2月9日までは、本誌を買うとPDF版が無料でダウンロードできる。PDF版で文字を大きくしたら十分に読める。

伊藤計劃の『虐殺器官』を読んでる

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伊藤計劃の『虐殺器官』を読んでるけど、

>音は視覚と異なり、魂にじかに触れてくる。音楽は心を強姦する。

という文に出会って強く共感している。この会話はプラハのクラブのフロアでのものだから余計にそそられた。『虐殺器官』は何ヶ月も前のクラブパーティで『攻殻機動隊』ファンのフロア友だちから勧められた。直感的に面白そうだと思ったのですぐに電子本を買った。買ったものの他に読みかけの本が何冊もあったので放置していたが最近読み始めたんだ。『虐殺器官』の主人公クラヴィスもまた、『攻殻機動隊』の草薙素子同様に暗殺が仕事の国家公務員だ。しかし愛国者ではなさそうだ。

>音楽は心を強姦する・・・

12月の3つのDJパーティの興奮を説明するとしたら、まさにこの言葉だと思った。12/19のパーティ “マタンゴ” のCMT12/22の “CHAOS” の Fumiya Tanaka のDJにディストピアへ向かう予兆を感じてぼくは音楽に深く共感していた。CMTのはそのパーティのコンセプトから期待された音でぼくは嬉しくて踊り続けた、後者はこれまでの“CHAOS”でぼくが聞かれなかった音で、ぼくは長く続くFumiya TanakaのDJが続く間、帰ることができなかった。疲れて椅子に座ると寝落ちたが、すぐにディストピア的なビートに鼓舞されてゾンビのように跳ね起きてフロアに立った。頻繁にスモークがたかれるフロアは常にモヤって、ダンサーたちのシルエットはゾンビの群れのように浮かび上がった。

3つ目は、12/30の”DJ NOBU-OPEN TO LAST-“で8時間のロングプレイだった。スタートして間もないフロアに立ったが、ビートのない音が続いていた。そして、ただならぬ気配を撒き散らしつつビートが鼓動し始めた時、音楽はまさに魂にじかに触れていたんだと思う。それからは様々なビートが変化しつつ永遠に流れ続けるようだった。複雑に絡み合うビート、あるいはレイヤーを構成するビート。その中でぼくは、音の海に浮遊するクラゲのようだった。電子情報の海に漂う不安と恐怖を想起させられる極めて”今”を感じる音だと思った。

読書メモ:絲山秋子著『ばかもの』

ばかもの

新潮 2008年1月号~8月号 初出

ヒデと年上の女、額子の恋愛。ヒデは大学生で19才、バイト先で額子にナンパされて付き合い始め、2年間付き合って額子に捨てられる。次に同じ講義を受けているネユキと付き合う。ロックのイエスだけをいつも聞いているネユキの部屋にヒデはよく泊まるがセックスはない。ネユキはデイトレーダーをやってる裕福な学生だ。

ヒデは大学を卒業して家電量販店に就職していた。ネユキは宗教に走り、彼女の方から付き合いを切られた。今度は、友人の婚約者の友だちの翔子と付き合いはじめた頃から酒を飲み過ぎるようになる。翔子とは結婚が見えていた。2年がたって28才の頃にはアルコール依存症が始まる。そして深い依存症へ。翔子も友人も職場も失い、親に頼る惨めな生活。

入院して依存症から快復して、額子と再会。愛を深める。この恋愛小説は好きになれない。『海の仙人』や『エスケイプ/アブセント』にはすごく感情移入しておもしろかったのに、この『ばかもの』は全然だめだ。同じ作家の作品とは思えない。いや、やはり絲山の作品だ。最後の方で、ヒデは「かつて自分をアルコールに駆り立てたものが、行き場のない思い」であったことを述懐する。そうなんだ。絲山秋子の小説はいつもいつも、行き場のない思いが描かれていて、そこにぼくは没入しているんだと思う。

読書メモ:絲山秋子著『沖で待つ』

沖で待つ (文春文庫)

文學会 2005年9月号初出

芥川賞受賞作ということで期待していたが、絲山作品には珍しく楽しめなかった。でも、短いし、単調なストーリーなのでさらさらと読んだ。今日みたいなふぬけで何も手につかない日は、テレビがあればスイッチを入れたら最後、ダラダラと見続けるだろう。そんな感覚でだらだらと『沖で待つ』を読んだ。

ぼくが絲山作品を読み続けているのは、マイノリティの立場からマジョリティに対して辛辣な視線を向ける主人公たちに共感しているからだ。ところが、本書の登場人物はマジョリティな人々だった。これでは共感はない。住宅設備機器のメーカーに総合職として就職した女子及川と同期の男子牧原との友情を描いたもの。

同期ならではの濃密でいて、恋愛に発展することのない友情があるらしい。妻と別次元の深い信頼で結ばれた関係を描いたもの。これまで読んだ絲山作品にはない清潔な作品。だから、芥川賞か?

読書メモ:絲山秋子著『勤労感謝の日』

沖で待つ (文春文庫)

文學会 2004年5月号初出、『沖で待つ』所収。

絲山秋子が好きなのは、登場人物に思い入れをして切なくなるような気分に浸れることだ。その切なさが心地いい。今朝は朝帰りだった。8時過ぎまでクラブパーティで踊っていた。疲れと興奮から日常への気持ちの入れ替えがうまいこと出来ないで、ふぬけな状態に陥っている。いつも、盛り上がったパーティの後は、ふぬけな一日が待っている。

そんなふぬけな日に、絲山秋子の小説がよく似合う。出口の見いだせない状況の中で、彼女の小説を読むことはキズをなめ合うような心地良さがある。主人公の鳥飼恭子は36才無職、母親のやっかいになりつつ職安へ通っている。大きな会社の総合職だったが上司とのトラブルから自己退職している。

そんな彼女に見合いの話しがあり、現れた相手は一流どころの商社マンで鼻持ちならない男だった。見合いの席を蹴り、街を歩いて後輩を呼び出して飲んでうっぷんをはらす。クリスマスムードに染まった街を歩きながらクリスマスに対して毒舌を吐き、社会を俗悪にしているのは自分たち世代だと毒舌を吐く。そんな毒舌はぼくも声を出して言いたいことで笑える。

例えば、近くの上沼町の新興住宅地では全世帯で豆電球を家の外壁に点滅させている。それに対して、電気はつけたら消すものだ、と。さらに節電に頓着しないゆえ「上沼町に原発を」と。幸せは家のなかでやってくれと念を押す。それにしても、原発をのフレーズは福島原発の事故後に読むからインパクトが強い。絲山作品をゆっくりと書かれた順番に読むつもりだが、原発事故後の作品が今から楽しみ。

読書メモ:絲山秋子著『スモールトーク』

スモールトーク

『スモールトーク』というタイトルから始めは小説じゃないと思っていた。対談集かエッセイか、そんな単行本だと思ってたけど、読んだら小説だった。カー雑誌の連載だったようだが、読めばそれ以外にないだろうことが分かる。

著者はポップミュージックをよく小説に取り入れる。本書のタイトル「スモールトーク」はスクリッティ・ポリッティのナンバーだ。YouTubeにあるので聞いた(Scritti Polliti Small Talk (HQ) – YouTube)。ぼくは全く知らないバンド、うんうん、お気に入りの車でこんな音楽を聞きながらドライブするのかと妙に納得した(ぼくはドライブというものを経験していない)。主人公はアルファ145に乗っている。そこにスクリッティ・ポリッティのCDがカーステレオに入れっぱなしになっている。

6回の連載でヨーロッパの高級車を一台、一台小説の中に取り入れて、車礼賛かと思ったら、車を毛嫌いするかもなんて気持ちが芽生え、最後で主人公は自分の145を捨てる。駐車場代が口座から落ち続けているが、その駐車場の中で145は錆、ホコリにまみれているだろうと想像する。ひょっとして145が眠りから覚めて意思をもつようなことがあったなら、カーステレオに入れっぱなしのCDから Small Talk が聴こえることだってあるかもしれない、というシュールな終わりだ。

二玄社、2005年6月発行

ジェイムズ・ボールドウィンの短編小説『ソニィのブルース』(1957年)

ジェイムズ・ボールドウィンが “ジャズ” を書いた短編小説『ソニィのブルース』(1957年)を読んだ。

1940年代、ビバップの時代のNYCハーレムが舞台。黒人の歳の離れた兄弟の話し。兄は家庭を持ち、堅実な生活を築く人生をやっている。だから弟ソニィがジャズミュージシャンになりたがっていることが不安でしょうがない。それで食えるのかとか、ヘロイン中毒になりはしなかとか不安ばかりを口にする。

ソニィにとって人生で重要なことは、食えるとか食えないという次元のことじゃなく、押さえきれない衝動のようなものを「音」に託すことなんだ。その衝動のようなものが「ブルース」だとぼくは思っている。ブルースも、ジャズも知らない兄が弟ソニィを通してそれらを理解する内容なんだけど、勿論それは読者に「ブルース」を伝えようとしている小説となっている。

小説の最後で、ソニィは兄を下町のナイトクラブへ連れて行き、演奏を聞かせる。客がひしめく真っ暗なクラブに驚く兄だったが、そこで年上の黒人ジャズミュージシャンたちが若いソニィのプレイをリスペクトしているのを目の当たりにして、ブルースを感じていく。

小説の背景には白人の黒人に対する人種差別がある。ぼくはレイシストや排外主義者はブルースを感じることはできないだろうと思う。ブルースは何かからの解放、その先に自由を見る感覚だから。

ジャズだけでなく、ロックにもレゲエにも根っこにはブルースがある。クラブに行くぼくは、まるでソニィの兄のように真っ暗でダンサーでひしめくフロアに立つ。そしてブルースを感じながら朝までねばっている。

読書メモ:絲山秋子著『エスケイプ/アブセント』

エスケイプ/アブセント

初出「新潮」2006年11月号

二度読んだが、一度目よりさらに面白かった。たぶん、これからも何度か読むだろう。絲山秋子の著書は『イッツ・オンリー・トーク』 から始まって、『袋小路の男』、『海の仙人』と単行本を読んできた。飛ばし読みなので、このプログのメモにはまだ書いていないが、『ラジ&ピース』と『ダーティ・ワーク』も読んでいる。これらの中でも、『エスケイプ/アブセント』が一番おもしろい。

エスケイプ

「どっかで暴動でも起きないかな!」が口癖の正臣だが、40歳の2006年、職革(しょっかく=職業革命家)を辞めて旅に出る。東京駅から大阪行きの寝台車に乗り込み、京都へ行く。これは京都での1週間の物語だ。きっかけは2001年、NYCの同時多発テロ。

1974年、三菱重工爆破事件をテレビニュースで見たのが正臣が過激派に入るきっかけとあるが、計算したら8歳じゃないか。テレビの前で熱くなっていたそうだ。1966年生まれということだから、68年前後の新左翼運動の激しい頃を体験していない。それでも、過激派のセクトに入る学生がいたんだ。

双子の兄弟の和臣は仙台から東京の大学に行った兄を嫌っていたので、自分は仙台を出て、京大を選び、吉田寮で生活をしながらノンセクト・ラディカルをやっていた。

ぼくは京都に住んだことはないが、大学院生と仲良くなり、下宿に何度も泊がけで遊びに行った。だから、この小説に出てくる場所やお店はたいてい知っている。院生が京都を離れても、ヒマがあると京都へ行くことが何年も続いていた。それがある時を境にすっかりと京都に興味を失った。この小説を読んでいたら、ちょっと京都へ遊びに行きたい気持ちが起きてきた。

正臣はルー・リードとも演奏しているロバート・クインのファンで、京都の中古レコ屋でロバートのレコードが縁でニセ牧師と知り合い、教会に泊まり込むことになる。教会といっても戦前から残る古い地域の長屋だ。

『海の仙人』にはファンタジーと呼ばれる神そのものが登場した。その神よりも本書の偽牧師の方が神について考えさせれる。いったい、著者は神を信じているのだろうか。とても興味深い。こんなにやるせない人物像を描けるのは神の存在を信じているからに違いない、というのが目下のところ、ぼくの結論だ。

アブセント

弟の和臣の物語。和臣は仙台から京都、そして今は福岡に住んでいる。京都時代の親友が交通事故で死んで、その実家の大津に行く。実家を出て近くの琵琶湖の前に立っているところで小説は終わる。
『エスケイプ』は、正臣が比叡山の山頂から琵琶湖を見ているところで終わっている。ただ、時代が4年ほどずれている。

明日も希望もない、とても悲惨な二人だ。